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このコーナーでは、日立製作所の研究所等で研究・開発を行っている技術テーマを中心としたコラムをお届けします。 研究員にインタビューを行い、技術テーマ解説・開発過程におけるエピソードなどを交えてわかり易くご案内いたします。
「二交点セル方式」は、挫折と努力の積層から生まれた結晶だった。
■ 若い頃は夢がなかった

 読者は日立級の企業で、功成り名を遂げた「大業績の人」というと、一体、どんなライフストーリーを思い描くだろうか。企業研究者としては理想型だ。アカデミックな評価があり、会社にも大きな収益をもたらしている。まあ、そのためには研究テーマが、時代の要請に合った「スジのいい」ものである必要があるだろう。僕が伊藤フェローにお会いする前、漠然と想定していたのは、当然、先見性のファクターだった。
 いや、平たく言うなら「とてつもなく頭がいいか、稲妻のように直感力に秀でた人物が、半導体メモリーの将来性を予見していた」といったストーリーをイメージしていたのだった。もしかすると青雲の志や、夢が、先見性のファクターにまっすぐつながっているような…。
 読者よ、そうしたら仰天しますよ。我らが「大業績の人」はインタビューの冒頭、いきなり「若い頃は夢がなかった」と言い切るのだ。そして、自らを失敗と挫折を繰り返した「落ちこぼれ研究者」だったと振り返るのだ。
 「去年の10月、母校の宮城県立岩ヶ崎高校で講演を頼まれまして、そのときにも若い人に言ったんですけど、僕には大きな夢がなかったんです。日立に就職したとき、あったのは漠然とした研究願望だけです。そもそも大学時代は半導体の講義が面白くなくて2回でサボッちゃった。つまり、単位がとれなかったわけです。だから半導体というのは、そのときから嫌いだったんです。それが何と日立に入って半導体でメシを食う羽目になりましたから、人生というのはわからないなという感じですね。そういう具合です」

「大業績の人」の執務室を見せていただいた
■ 30歳の再転進も失敗の連続

 1963年入社の伊藤フェローが最初に手がけたのは、実はレーザーの研究であった。
 「私は初めレーザーの研究をやったのです。希望通り中央研究所、希望通りレーザーの研究をやったんですね。ところが1年ぐらい経つうち面白くなくなってしまったんです。というのは私は22歳で入りましたから、あまりにも自分の力がないということに愕然としたんですね」
 伊藤さんは海外の論文をいっしょうけんめい読んだ。読むと自分の力のなさにますます悩む。実は論文というものは、犯行現場の指紋をきれいにふきとった後のようなもので、本当はそこに指紋がベタベタついていたんだと気がつくのは後のことだ。
 「それで大学に戻るか、このまま日立に残るか、そういう部分で悩んだんです。大学に手紙をやったら、戻って来ないで頑張れと退路を断たれまして、それで悩んだ末に自分の意思で研究室を変えてくれといったんです」
 伊藤さんは23歳で大型コンピューターの開発に転進することになった。大型コンピューターというと、いよいよ半導体の登場かと思うが、それが実は磁性体である。磁性体メモリーの研究に7年間とり組んだ。一体、いつ「大業績」の半導体にたどり着くのだろう。
 「30歳になって磁性体メモリーから半導体メモリーに移ったわけですが、これは自分の意思じゃなくて外圧です。IBMとインテルが半導体メモリーを発表したというわけで、お前、やれといわれて会社の命令でやったわけです。夢も何もないですよね、そうすると。当時の半導体メモリーはIBM、インテルに比べて、日本全体、日立を含めて圧倒的な技術格差があったわけですから、その後8年も失敗の繰り返しで、4回も失敗しました」
■ どうせ失敗するんだったら自分のアイデアに賭けよう

 「その後8年」とおっしゃるのだから、30代後半になってしまった。どうです、全然想像と違うでしょう。伊藤フェローが「メモリーチップ世界一」を達成した「二交点セル方式」は、知識ゼロのところから失敗を繰り返して作り上げたものだった。
 当時、実績のない「二交点セル」は信用がなく、伊藤さんは部長承認印のない資料で特別研究の会議に向かわざるを得なかった。
 「考えてみますと、若いときには失敗の連続でしたから、あまり言ってはいけないですけれども査定が悪いです。ですからはっきり自覚しているわけです。仲間に比べて基本給が悪いとか。でも何とかしなきゃいけないというわけで、とにかく頑張りました。もし私の才能ということがあれば、そういうことだと思うんです。非常にひとつのものに集中して、長い間努力し続けた。私は努力する才能に恵まれた。それがあれば、ほとんどのことはいいところまで行くんだろうと思うんです。それで39歳ぐらいになって世界ナンバーワンになったんです」
 お話をうかがっていて本当に苦しかったんだなあと感じ入った。20代に研究した磁性体が御破算になって、知識ゼロ、展望ゼロからやり直しになった日々。4回大きな失敗をして工場に損害を出し、四面楚歌のなか、最後のチャンスに賭けたその想い。
 「今だから言えるんですけれども、辞表覚悟でしたね。辞表覚悟です。今はもうニコニコして言えますけれども、当時はそんなことおくびにも出さなかった。もしこれが最後であれば、どうせ失敗するんだったら、自分の思うような、自分のアイデアに賭けようと思ったんですね」
 磁性体メモリー時代にヒントを得た「二交点セル方式」には、半導体での実験データがなかった。実験データがないのに、それを製品開発に投入したことになる。伊藤さんは磁性体にとり組み、御破算になった自分の20代に賭けてみたのだった。「大業績の人」は、こうして世界を動かしていくことになる。
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